ぼくの中に「粛々と」や「努力」という概念はあまりない。
・・・ということに気づく。
いまさらかもしれないけど、そもそも意識がないから、気づくキッカケがつかみづらかったのだろう。
ところが最近、ぼくの周りで、やたらと「努力」という言葉が飛び交う。
ぼくは「ガムバる」のは好きだけど、努力はしない。
昔は、周りに言われるままに多少は努力もした。
正確には、努力しようと努力していた。
ただ、努力してうまくいったことがない。
努力するほど空回りするタイプなのかもしれない。
いつの頃からか、努力という言葉を耳にするたびに、なんだか嘘臭さを嗅ぎとってしまうようになった。
努力しろという大人は、たいてい努力しなかったために後悔しているような人だった。
ただし、結局努力していない人なので、果たして努力したところでうまくいったかどうかは未経験のまま、ぼくら若者に努力を勧めるのだった。
だから、まるで信用に値しない、ほとんど愚痴に近い、大人の戯言に聞こえた。
こんなぼくが『努力をやめるノート』なんていう本を書いたことがある。
この出版のあと「ジョイさんは努力する人を否定するのか? 」と、時々言われる。
もちろんそんなことはない。
「努力なんて無駄」と言いたいのではなく、努力しようとする意識をぼくは疑うのだ。
潜在能力は、ワクワクドキドキでいっぱいのときに活性化する。
でも、努力しているときってワクワクもドキドキもないのでは? と思うのだ。
ぼくにとっての努力って、無理して頑張ろうとしている感じなのだ。
そんなのを続けていると、というか、そんな努力は続けられないだろう。
努力するとは、したくないことを自分に強いてやらせようとする意識のように思えて、だからかつてのぼくは、努力しようと努力していたのだと思う。
『努力をやめるノート』は、努力のやめかたを書いたのではなく、やりたいことを見つける方法を書いた。
やりたいことがあれば、努力なんてする必要がなくなるはずだ。
やりたいことはあっても、そればかりをやっているわけにはいかないから、やらなきゃならないこともあって、それは努力が必要ではないかというツッコまれる。
じゃあ、限りなく、やりたいことだらけで自分の毎日を埋め尽くしてしまえばいいじゃないかと思う。
理想的空論?
でも、不可能じゃない。
努力のための100%の力より、やりたいことで埋め尽くすための100%の工夫のほうが人生は楽しくなりそうだ。
現実はキビシイもので、楽しいことばかりであるはずがない・・・と決めつけてしまうとしたら、ぼくらは何のために生まれてきたのだろうか?
だとしたら、人生は日々修行だと言われても仕方がない。
けど、ぼくはそうは思わない。
簡単て゛はないかもしれない。
けど、だからなんだ。
そんな負の催眠にはかからない。
難しければあきらめて、やりたくないことを努力し続けてなんとかやり通す毎日では奴隷と同じではないか。
難易度なんて関係ない。
どちらが楽しそうか、良さそうか、自分らしそうか。
ただそれだけでいいのではないか。
楽しそうだけど、難しそうでもあるから、キツくてつまらない人生を選びます・・・そっちのほうが楽そうだから・・・。
そういう人は、それでもいい。
ただぼくは断固それじゃ嫌なのだ。
ライブまで60日を切った。
やることは山ほどある。
多分普通なら120日はかかりそうな分量だ。
でも、めちゃくちゃ楽しそうなのだ。
こんなときぼくの潜在能力は間違いなくその力を発揮する。
2倍3倍のスピードで、ぼくを導いてくれる。
素晴らしいステージが創れますように。
そのためにすることのどこにも、努力なんてない。
本当にやりたいことがまだ見つかってないけれど、もしかしたらもう手にしているのかもしれない。探すものがあるって楽しみで嬉しいことですね(#^.^#)