僕は18歳の時アメリカへ渡った。
最初は一ヶ月の予定だった。
復路のエアチケットは一ヶ月後のものだった。
気づけば6年間アメリカで暮らしていた。
もちろん、自分がアメリカにいることに、6年もの間、無自覚だったわけではない。
何度か帰国しようかと考えたり、そのタイミングも実際にあった。
でも、僕はその度に、そのままアメリカに居続けるほうを選んできたのだ。
なんのコネクションもないところから僕のアメリカは始まった。
たくさんの出逢いがあった。
ゼロからのスタートだから、出逢うもの、出逢うことすべてが新鮮だった。
奇跡みたいな、運命的な出逢いも、たくさんあった。
あり過ぎて怖いくらいだ。
僕がジョイ石井を名乗るきっかけとなった養子縁組の話も、その運命的な出逢いの一つだ。
僕のアメリカでの生活すべてに責任と経済的サポートを申し出てくれた。
アメリカでの母親となってくれたFRAN。
そのFRANが僕にJOYというアメリカンネームを与えてくれた。
「あなたはどこに行っても、何をしててもJOYだから。
あなたと会う人はみんなあなたからJOYをもらうから」
こんな素晴らしい言葉を人から貰ったことなどそれまでなかった。
20年生きてきたその時の僕にとって最高の賛辞だった。
50年以上生きている今の僕にとってもそれは変わらず最上級の賛辞だ。
ネイティブアメリカンとも数ヶ月暮らした。
彼らは僕をIOI(イオイ)と呼んだ。
彼らスー族の言葉で「笑う喜び」という意味だそうだ。
ここでも「喜び」という名を与えられた。
僕はそれまで日本で暮らしていて、喜びとか笑いとか、そういうキャラとして扱われたことがなかった。
少なくともその当時の僕は、日本にいるよりもアメリカにいる自分が性に合っていたのだろう。
伸び伸びと自分らしさを発揮できたのだろう。
アメリカという場所が、僕のいいところを引き出してくれたような気がする。
ハリウッド映画ばかり観て育った僕にとって、アメリカはあこがれの国だ。
そこにいるだけで、僕はスーパーポジティブな自分になれた。
誰と逢っていても楽しかった。
きっと相手も僕と一緒にいて楽しいと感じてくれていたのではないかと思う。
そんな状態の僕だから、素晴らしい人たちを次々に引き寄せた。
僕は幸せだった。
そんな自分を感じられたからこそ、僕は日本に帰ることよりも、アメリカに留まるという選択肢を、いつも取っていたのだと今ならわかる。
日本にいる両親を想うともちろん逢いたくなったし、寂しくもなった。
友だちとも普通に日本語でおしゃべりできたらいいだろうなとも想っていた。
でも、すべてにスケールの大きいアメリカが好きだった。
そこで生きる人たちが大好きだった。
そして、それ以上に僕は、あこがれのアメリカにいる自分のことがたまらなく好きだったのだろうと思う。
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